手水之縁:日本語訳 當眞嗣美
人物
山戸
玉津
志喜屋の大屋子
山口の西掟
門番
山戸 歌
春は野も山も
百合の花盛り
行き添える袖の
匂いゆかし
山戸
我(わたし)島尻(しまじり)の
波平大主(はんじゃおおぬし)の
生(な)し子(ご)山戸(やまと)です
今日は上下(かみしも)遊ぶ
三月の三日
そよ風も涼し
瀬長山(せながやま)登り
花眺めしよう
花摘み遊ぼう
世間で名高い
瀬長山(せながやま)見れば
花の美しさ
匂いのゆかしさ
みな遊びながら
花眺めしよう
玉津 歌
三月になると
心浮かされて
波平玉川(はんじゃたまがわ)に
髪を洗う
玉津
今出る私は
知念山口(ちねんやまぐち)の
盛小屋(もりこや)一人子(ひとりご)
玉津(たまつ)であります
三月になれば
心浮かされて
波平玉川(はんじゃたまがわ)に
髪を洗う
歌
波平玉川(はんじゃたまがわ)の
流れ入る水に
すがすがと髪を
洗い戻る
山戸
花も眺めたし
急いで戻ろう
もしもし、
とても水欲しく
たえられないので
あなたの情けで
飲ませてください
柄杓(ひしゃく)でくださる
情けであるなら
もっと飲みたいのは
君の手水
玉津
見ず知らずの方(かた)
手水など知らず
まだ未婚ですよ
ごめんなさい
山戸
昔、手に汲(く)んだ
情けから出たと
今に流れ入る
許田の手水
玉津
水を口実に
御冗談でしょう
人目がうるさい
急いで行って
山戸
露を踏みしめて
草と縁結ぶ
手水を飲まずに
戻って行くよりも
むしろこの川に
身を捨てよう
玉津
もしもし、
命捨てるほど
のことであるなら
恥ずかしいけれど
手水します
山戸
ありがたい
この川がたより
手水飲むことは
天の引き合わせ
神のお助けか
世間で名高い
知念山口の
盛小屋(もりこや)一人子(ひとりご)
玉津(たまつ)であろうか
闇夜の烏(からす)も
鳴かねば知らない
言ったら聞きなさい
いやしい私は
波平大主(はんじゃおおぬし)の
生(な)し子(ご)山戸(やまと)です
あなたの名前は
うちはどこですか
人に知られずに
闇夜にまぎれて
忍んで隠れて
会いませんか
玉津
人違いですよ
見ず知らずの方(かた)
浮世など知らず
恋路など知らず
まだ未婚ですよ
ごめんなさい
山戸
なんと、ままならぬ
ことであるならば
匂いでも袖に
移してください
面影は死出の
みやげですよ
玉津
隠すことならず
きっと現れます
言われるとおりに
知念山口の
盛小屋(もりこや)一人子(ひとりご)
玉津(たまつ)であります
見たいと思っても
七重(ななえ)の垣内(かきうち)
莟(つぼ)む私です
外に枝出して
花が咲く時も
あるでしょうか
山戸
君が言うことは
たとえ天竺(てんじく)の
鬼が立つ門も
恋の道ならば
開(あ)くものです
玉津
この川のならい
人が多いので
急ぎ立ち戻り
また会います
約束はたしか
偽りはなしで
今日は立ち戻り
また会います
歌
別れても互い
御縁あるならば
糸に抜く花の
切れて退(の)かぬ
山戸 歌
忍び行く心
他所(よそ)は知らないが
笠に顔隠す
恋のならい
山戸
手水した情け
思い増す鏡
面影に匂い
立てる心持ち
恋に踏み迷い
焦がれ死ぬことは
むかし物語
人ごとのようだ
糸柳(いとやなぎ)枝に
桜花咲かせ
梅の匂い立つ
あなたの情けに
波平川(はんじゃがわ)手水
胸に飲み染めて
波の夜昼も
寝ることもできず
鳥ともろともに
泣き明かしている
朝夕我が袖
波下の干瀬(ひせ)か
乾く間もないと
濡れる心持ち
野山越す道は
幾里隔てても
闇に紛れ合い
忍んで行く
歌
野山越す道は
幾里隔てても
闇に紛れ合い
忍んで行く
山戸
闇の夜(よ)の人も
寝静まりいると
門に出てどうか
語りましょう
歌
暮らされず
忍いで来た
門に出てどうか
語りましょう
玉津
闇に唯一人
忍び来る心
かねて知る私
待つせつなさ
山戸
愛(いと)しいあなたの
面影と匂い
立ち勝り勝り
暮らしておられず
尋ねて来ました
玉津
ああ、思う人よ
ここは人多く
中に入って来て
これまでの話
語りましょう
歌
結び置く契り
この世だけでなく
互いに変わらず
あの世までも
* * * * *
門番
誰がこの夜更(よふ)け
殿地(とのち)に踏み入る
名乗るなら名乗れ
切り殺してやる
山戸
寝覚めを起こした
あわてるな男
花の上の蝶
止めることはない
闇に唯一人
忍んできたのだ
名を聞くと言うか
心ある私
掛かるなら掛かれ
切り殺してやる
門番
ああ、恋の見回りを
するものではない
たいへんな私
急いで去る
山戸
あなたと私の
忍びが現れ
明日あなたの責め
あると思う
もしもの時には
ひとりにはしない
私ももろとも
いっしょになろう
歌
もしもの時には
ひとりにはしない
私ももろとも
いっしょになろう
* * * * *
志喜屋の大屋子
盛小屋(もりこや)大主(おおぬし)
頭役(かしらやく)である
志喜屋(しきや)の大屋子(おおやく)
そう、大主の子供
花の真玉津(またまつ)が
去る月の三日に
波平川(はんじゃがわ)降りて
髪を洗う口実(わけ)
波平(はんじゃ)真山戸(まやまと)と
恋忍ぶことを
世間に知られて
隠しようがなく
世のうわさとなり
広まっていること
我が大主まで
知らせる人あって
知念浜降ろし
一刀(ひとたち)に殺せ
喫緊(きっきん)の御返事
申し上げるよう
お言い付けがあり
心苦しくて
どうしようもない
言い付けのごとく
しなければならぬ
山口の西掟
ああ、仰せ通り
私も隠して
隠そうとしたが
大主のもとに
知らせる人あって
心苦しいが
殺すほかは
志喜屋の大屋子
やあ、西掟(にしんち)
それぞれの用意
急いでしてから
夜の深い内
連れ出して行こう
山口の西掟
かしこまりました
* * * * *
山戸 歌
なんと、真玉津(まだまつ)は
殺されるという
なんとか尋ねて
いっしょになろう
山戸
哀れ真玉津(まだまつ)は
人目を忍んで
知念浜に出し
殺させるという
知らせる人あって
今私は聞く
あなたを先立て
この世でどうする
なんとか尋ねて
いっしょになろう (間)
道中だろうか
もう殺されたか
心せき歩き
一目見たい
道行 歌
道中だろうか
もう殺されたか
心せき歩き
一目見たい
玉津 歌
あなたと私の
忍びが現れ
どうしようもない
死出の山道に
あなたを振り捨て
行く際(きわ)にのぞみ
恋の氏神に
まことがあるなら
愛(いと)しいあの人
知らせなさい
志喜屋の大屋子
さあさあ、知念浜着いた
さて、わが子
決まってしまったこと
どうしようもない
心安々と
あの世へ行け
玉津
捨てる身の命
露ほど思わぬ
残るあの人は
どうするのか
山口の西掟
惜しい花盛り
つぼみそのままで
玉の身を散らす
うらめしくも
志喜屋の大屋子
さあ、西掟(にしんち)
人目の無いうち
急ぎすませ
山口の西掟
かしこまりました
玉津
さあ、志喜屋(しきや)の大屋子(おおやく)
山口(やまぐち)西掟(にしんち)
この世振り捨てて
行く際(きわ)にのぞみ
恥も振り捨てて
言うからは聞いて
生きると苦しい
死ねば忘れるか
片時もあの世
急ぎたいけれど
二度とこの世では
会うことが出来ぬ
哀れ思うこと
尽せないけれど
死にゆく命は
露ほど思わぬ
あの人に言葉
気に掛かることが
ああ、志喜屋の大屋子
彼は花盛り
他の人に勝(すぐ)れ
男と生まれて
この世のしるしに
国王奉公
夜昼とはげみ
天のお定めが
降りて来る時は
死出の山道に
お待ちいたします
愛する彼へと
言って下さい
もしも遺言(ゆいごん)に
背きます時は
まことにあの世が
この世のようなら
たとえ一目でも
見ないはずですよ
細かく心に
染めますよう
志喜屋の大屋子
おっしゃる御言葉は
今日過ぎて明日(あす)に
人目を忍んで
告げるつもりです
心安々と
逝(い)って下さい
さあ、西掟(にしんち)
時が過ぎるから
急ぎ済ませ
山口の西掟
かしこまりました
朝夕育てて
参りました御子(おこ)
義理からどうして
殺すのでしょうか
歌
朝夕育てて
参りました御子(おこ)
義理からどうして
殺すのでしょうか
山口の西掟
心から育て
参りました御子(おこ)
一刀(ひとたち)で殺す
心忍ばれず
大屋子(おおやく)どうにか
なりませんか
志喜屋の大屋子
御命令である
どうか頼む
山戸
やあ、やあ、
しばし待て
ああ、わが君よ
山口の西掟
刀刃(かたなば)に障(さわ)る者は
どこの誰か
志喜屋の大屋子
おい、どこの誰か
山戸
哀れだと思い
聞いてくださるか
いやしい私は
波平(はんじゃ)山戸(やまと)です
どうも盛小屋(もりこや)は
義理立てが多い
たとえ天竺の
鬼立ちの門も
恋の道ならば
開(あ)くものです
さあ、志喜屋(しきや)の大屋子(おおやく)
山口(やまぐち)ぬ西掟(にしんち)
義理も理(ことわり)も
聞き分けください
むかし物語
百伝(ももつた)えに聞く
恋忍ぶことは
世間のならわし
不憫(ふびん)に思われ
哀れみと思い
世間の取り沙汰
打ちやむ間は
百(もも)隠し隠し
知られないように
真玉津(まだまつ)の命
私にください
さあ、さあ、
自由にならない
ことであるならば
私もともども
殺(や)ってください
志喜屋の大屋子
なあ、西掟(にしんち)
気づいたことには
私が思うに
世間のうわさは
しばらくのことだ
真玉津(まだまつ)の命(いのち)
真山戸(まやまと)に渡し
殺して来たとの
返事を申せば
あとあとになっては
心取り戻し
またも世に戻し
花を咲かさせて
玉の緒の御縁
結ぶでしょう (間)
さあ、山戸(やまと)さま
いとしい恋人
やさしい恋人
一刀(ひとたち)で殺す
心が忍ばず
真玉津(まだまつ)の命
渡すつもりです
急ぎ引き連れて
隠れ行きなさい
山戸
ああ、尊(たっと)い
お二人のおかげ
わたしたち命
御恩の尊さ
言葉に尽せず
思うこと多く
語りたいのだが
鳥も鳴き始め
やがて夜(よ)も明ける
御恩と御情け
後で返します
玉津
ねえ、志喜屋(しきや)の大屋子(おおやく)
山口(やまぐち)の西掟(にしんち)
お二人の心
言い尽せません
御恩と御情け
後で返します
山口の西掟
ああ、わが子
ああ、山戸(やまと)さま
夢ほどに人に
知られてしまっては
われわれの命
あぶなくなります
夜が深いうち
行ってください
山戸
さあ、愛する君
あなたと私の
忍びが知られて
人目に隠れて
殺させるという
人の知らせあって
探して来ました
思うこと適(かな)い
生き目にあずかり
連れて行くことは
夢のようだ
玉津
私もこのこと
言い尽くせません
鳥も鳴き始め
やがて夜(よ)も明ける
人目を忍んで
急ぎ行きましょう
山戸
さあ、さあ、
急ぎましょう
歌
命救われて
連れて行くことは
きっと夢の中の
夢だろうか